「妙光寺」

2009年5月31日 撮影
MYOKOJI Temple, Kyoto - May 31, 2009
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妙光寺(みょうこうじ)、山号は正覚山。臨済宗建仁寺派。かつては「京都十刹」のひとつ。1285年、法燈国師覚心により開山。法燈国師は43歳のとき中国(宋)に渡り修行、帰国時に味噌・醤油を伝え、普及の始祖とされる。また尺八による虚無僧宗門(普化宗)の祖としても知られる。妙光寺は応仁の乱後、荒廃したが代々、糸屋十右衛門を名乗った豪商打它公軌により再興した。
 ・京都市右京区宇多野上の谷町
 ・TEL 075-463-0780
 ・市バス「福王子」下車徒歩5分
  嵐電北野線「宇多野」下車徒歩8分
 ・境内自由

妙光寺は桃山時代に当時の豪商・打它(うだ)家によって奉納された俵屋宗達による「風神雷神図」(現在は建仁寺の所蔵、京都国立博物館蔵、国宝)で有名です。これまでに昨年の春、今年の「京の冬の文化財特別公開」で2度公開されたことのある妙光寺は再建の途中。こちらは山門。左に通用門がありましたのでそちらから境内に入りました。

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妙光寺は現在復興の途上にあります。

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こちらが庫裏の玄関です。御朱印を戴くために玄関チャイムを押したのですが、ご住職さんのご厚意で方丈(客殿)に上がって拝観させていただきました。
さらに、この日はご住職さんの予定も入ってなかったことで、たっぷり時間を割いて妙光寺内のすべてを案内していただきました。覚えている限りご住職さんから伺ったお話をお伝えしようと思います。

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ご住職さんは1年半ほど前に建仁寺から来られたそうです。それまでは無住の寺で、荒れ放題だったようです。建仁寺による再建の手が入ったのは2年ほど前からです。

下の絵は方丈に架けられていたものです(「都名所図絵」巻6、妙光寺、に掲載されたものの写真)。現在はない法堂や山門が描かれています。

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妙光寺の古地図ですがいつの時代のものかはっきりしません。方丈だけは正確に間取りが書かれています。ひょっとすると新撰組により焼き討ちを受けた後のものかもしれません。地図上の青い数字は私が書き入れたものです。以下の写真の説明で使用します。

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古地図の右上部分拡大図です。ご住職さんによれば後で書き加えられたものらしい、とのこと。「寺領は北は神通川、西は御室川、東は双岡」など書かれ、京都十刹にふさわしい広大な寺領です。

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昔の姿を留める方丈です。江戸時代の再建ですが、古い時代の材木も所々残っていました。

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方丈南面の枯山水庭園は最近造園されたものだそうです(古地図の数字1の場所)。客殿内の撮影は失礼に当たるかもしれないため控えましたので写真はありませんが、仏間の本尊、左右に祀られた開山の法燈国師、打它公軌の説明を受けました。

妙光寺は南朝(亀山・後醍醐・後村上の三朝)より勅願寺とされ、一時「三種の神器」も奉安されていたとかで仏間の右側が「三種の神器の間」となっていました。

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古地図の数字1が庫裏(左半分)と方丈(客殿、右半分)です。建物に取り囲まれるように中央に庭が造られています(下の写真)。

客殿の北側には茶室があります。ご住職さんのお話によれば、近年まで江戸末期に新撰組によって襲撃されたままの状態で残っていたそうです。幕末期のご住職、そして妙光寺最後の妙光寺の住持、天章慈英(てんしょうじえい)和尚は勤皇派であり多くの勤王の志士をかくまっていたため襲撃に会って、茶室で命を落とされたとか(1871年7月9日)。その時の血糊もそのまま残っていたそうです。今はきれいに改装されていました。写真は撮れませんでしたが、茶室の造りは一風変わっていて、床の間に炉がありました。

庭の中央に井戸が見えますね。この中に高杉晋作が酔って落ちた、という逸話が伝わっているそうです。多くの有名な勤王の志士が出入りしていたようです。

古地図にはありませんが、茶室の北側に近年、開山堂が建設されました。そこには法燈国師覚心の像が祀られていましたので手を合わせてきました。出身は松本だそうで、なんと92歳まで生きられたそうです。

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方丈の西側に直径10mほどの小さな池があります。これはずっと昔からあったようで古地図の方丈と法堂の間にある座禅堂の右上にちいさな○で描かれています。

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池を覆うように松の木が一本あり、モリアオガエルがちょうど産卵を終えたところでした。白い泡状の卵塊がふたつ見えます。京都は里山まで住宅や神社仏閣が多くありますが、古来、自然に溶け込んだ生活が重んじられてきたおかげで市内随所でモリアオガエルを見ることが出来ます。(モリアオガエルは絶滅危惧種です。地域によっては天然記念物に指定されていますので大切にしましょう。)

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古地図の数字2には「法堂」とありますが、現在はありません。ところがこの位置に穴が空いています。ご住職さんによれば中は枝分かれしていて出口は裏山の中腹です。入口の穴の高さは人の背丈ほど。かつて、敵に襲われたときのための、法堂内部から裏山へ通じる避難道だったのでしょうか? なお「法堂」は静岡市清水区の鉄舟寺へ移築され、現役で使われています。

古地図の数字3の「仏殿」も現在ありません。「都名所図絵」にも描かれていません。古地図の記述は正しいのでしょうか? 「山門」は1887年、建仁寺の護国院開山堂に移築されています。

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裏山中腹から方丈を振り返りました。左の大きな屋根が仏間のある本殿。右手前の屋根が最近建てられた開山堂です。

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江戸時代前期に活躍した京焼の祖のひとりである野々村仁清(ののむらにんせい)の墓が法堂跡の西側にあります。妙光寺を再興した打它家と交流があったためでしょうか、ここにお墓がありました。この墓石はオリジナルです。一時期、後世に作られたレプリカが境内に置かれ、本物は屋内に安置されていたようですが、現在は本物が墓地に置かれています。

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古地図の数字4の四角い建物ふたつは「印金堂」(元の開山堂)です。昭和まで建物が残っていましたが、崩落してしまい現在はその廃墟を見ることが出来ます。当時の堂内には中国渡来の印金裂を貼りめぐらせたという壮麗な建物でした。当時の印金裂は数枚のみ残っているそうです。いつの日か印金堂も再建されるといいですね。

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古地図の数字5の「墓」は開山・法燈国師覚心のお墓です(写真奥の竹垣に囲まれたお墓)。みぎの階段は近年の建設された「村上天皇陵」への参道です。

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古地図の数字6の「墓」は打它(うだ)家代々の墓です。墓石デザインは非常に特徴がありますね。有名な小唄「京都三条・糸谷の娘、姉は18妹は15、諸国大名は弓矢で殺す、糸屋の娘は目で殺す」がありますね、この糸屋が「豪商・打它氏」の呼称です。

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方丈の内庭を拝観しているときに猫ちゃんを発見! ご住職さんが大切に飼われている猫ちゃんで18歳だそうです。名前は「ミミ」、愛称はミーちゃんです。

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内庭でくつろぐミーちゃん。

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ご住職さんがミーちゃんのための作ったという写真絵本も見せていただきました。

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お別れにご住職さんと記念撮影、「はい、チーズ!」 たくさんのお話、ありがとうございました。

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