都田とは

浜松市都田町、その地勢と歴史
更新 2018年1月30日
Topography and History of MIYAKODA
Hamamatsu, Japan - Jan.30, 2018

都田(みやこだ)。新東名浜松スマートICや都田テクノポリスが出来たことで近年大いに発展中であすが、このエリアは古来より郷が営まれ、その歴史は一万年以上におよびます。

目次

miyakoda_banner.jpg はじめに - Preface

浜松市北部エリアはNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」によって脚光を浴びました。奈良時代からこのエリアは古い書物に記録が残っていて、当時は「引佐郡」と呼ばれ4つの郷に分かれていました。それらは京田(みやこだ)、刑部(おさかべ)、謂伊(いい)、伊福です。
 謂伊はのちの井伊谷、伊福はのちの気賀、刑部はのちの中川、これら3つの郷は大河ドラマの舞台。現在はそれぞれ引佐町、細江町となっています。
 一方、京田(みやこだ、のちの都田)は大河ドラマには時々名前が出てくる程度ですが、鎌倉時代までは神明宮(伊勢神宮)の所領であり都田御厨(みくりや)と呼ばれていました。

引佐の他の3つの郷は井伊氏との結びつきが深いのですが、都田は地方豪族の領地とならず独立性が高かったわけです。ところが南北朝の時代になって都田は井伊氏の所領となります。戦国時代は井伊谷三人衆の一人、菅沼氏によって治められます。
 井伊谷(現在、引佐町)に隣接する都田町、古代から近代までの都田の歴史をいろいろな文献を参照しながらまとめてみました。

なお、現在の都田町は、古来からの都田郷「九重地区」、三方原台地の最北端「高台地区」、北部山間地の「滝沢・鷲沢地区」の3地区より成りますが、ここでは九重地区(いわゆる都田村)に絞ってご紹介したいと思います。

miyakoda_banner.jpg 1. 都田の地勢 - Geographical Features of Miyakoda

都田は、北、東、南の三方を丘陵に囲まれた盆地で京都盆地に似ています。周囲の山の標高は300mに満たないため京都のように極度の盆地気候ではありません。盆地は西に開けており、中央を都田川が北東から南西に向かって流れ、最後は浜名湖に注ぎます。

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(三方原台地北端から都田を見下ろす。都田盆地の最東部。)


この地方における古い里歌に「気賀は七村、刑部八村、花の都田九の村」と歌われています。古来、都田は9地区(新木・横尾・谷上・中津・一色・吉影・中野・須部・川山)よりなります。最も西に位置する一色は瀬戸村(現:中川)と接しています。なお、ここでいう都田は狭義の(古来からの)都田です。
(注)三方原台地の北端エリアも現在は都田町に含まれます。すなわち、沢上、白昭、前原の3地区、および新たに生まれた新都田地区です。

地名の由来

「みやこだ」の地名はいつから使われているのでしょうか。平安時代中期の「和名抄」にはすでに「京田」の記述がありますし、さらに遡って、若林町の城山遺跡から発掘された8世紀の木簡にも「京田」の墨書きがあります。桓武天皇の「ここは都だ」伝承はともかく、少なくとも西暦700年代には「みやこだ」の呼称はあったようです。
 別説として、都田の名称は「屯倉田(みやけだ)」が転訛したものともいわれています。屯倉は朝廷直轄の領地で、朝廷に納める稲を作る田を「屯倉」と呼びました。気賀から都田、さらに宮口にかけて屯倉があったといいます。

主要インフラと施設

都田町内の主要アクセスは天竜浜名湖鉄道、および国道362号線。そして新東名高速道路の「浜松SA、スマートIC」があります。また主な文化・観光施設として、「はままつフルーツパーク時之栖」、「須倍神社」、「ドロフィーズキャンパス」、「本田技研浜松サッカー場」があります。教育施設は「常葉大学浜松キャンパス」、「市立都田中学校」、「市立都田小学校」。

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(都田盆地を走る幹線道路、国道362号線。このあたりは新木地区。)


都田の人口

都田町の各地区別の人口は公表されていません。ここでは各地区の世帯数を示します。なおデータは2017年4月時点のものです。なお参考までに新都田の数値を掲載していますが、大規模なニュータウンが造成され、都田の人口を倍増させていることがわかります。従来からの9地域は合わせて800世帯、人の出入りは少なく古くからの世帯数が維持されているものと思われます。

地区名世帯数地区名世帯数
川山92新木22
横尾68谷上38
中津330一式28
吉影58中野132
須部46新都田1,620


都田川

都田川は、静岡県と愛知県との県境、鳶の巣山を源流とし、渋川、久留女木(くるめき)、いなさ湖(都田ダム)、大平(おいだいら)、滝沢キャンプ場を経由します。

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(滝沢キャンプ場付近。後ろに見える巨大橋は新東名高速が開通前、工事中の頃撮影。)


やがてその流れは都田の平野部に入り、都田盆地の田園の真ん中を流れます。さらに瀬戸、金指、気賀を経由して浜名湖に注ぎ込む総延長25kmの二級河川です。

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(都田盆地の中央をゆったり流れる都田川)


新都田

1993年、都田に新しい地区「新都田」が加わりました。このエリアはテクノポリス地域に指定されており、様々な業種の研究所や工場が立ち並び、大規模住宅地も併設。新都田の中心にはカインズモールショッピングセンターがあり常に賑わっています。また新都田には広大な自然公園 「都田総合公園」 があり市民の憩いの場となっています。

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(都田テクノポリスと都田総合公園)


miyakoda_banner.jpg 2. 都田古史 - History of Miyakoda

「石器時代〜縄文時代」

新都田の前平および前原III遺跡では旧石器時代(約1万年〜2万年前)のナイフ型石器が発掘されていて、浜松市で発掘された最古の石器です。

前平遺跡において縄文時代中期(約5,000年前)の八ヶ岳産の黒曜石と、前原遺跡において縄文時代晩期(約3,000年前)のチャートの原石が出土しています。いずれも当時の石器の原料です。

また川山遺跡(現在フルーツパーク)において縄文時代晩期(約2,500年前)の磨製石斧が多数発掘されています。都田川上流に三波川帯と呼ばれる岩山から切り出された非常に堅い岩石を磨いて石斧を製作していた工房があったようで、作成途中の失敗品が多数見つかっています。

縄文時代以前は海面も高く都田川流域は湿地帯であった可能性が高い。従って三方ヶ原の台地上や北部の丘陵地が居住に適していたのでしょう。(参考資料(3) p.43)

「弥生時代」

前期弥生時代(約2,300年前)の遺跡は川山地区において発見されています。また、後期弥生時代の遺跡は吉影地区で発見され、多くの弥生式土器が発掘されています(土器は都田中学校にて保存)。さらに同時代の遺跡が川山地区においても発見されています(川山遺跡)。なお様々な発掘物から、都田地域に稲作が伝わったのは今から約2,200年くらい前だと言われています。(参考資料(3) p.44)

後期弥生時代も終わる約1.600年前頃の遺跡として、中津と吉影地域の都田川の自然堤防上に、南北300m、東西200mにわたる村落の遺跡が発掘されました(椿野遺跡)。多くの弥生式土器や銅器が発掘されています。これらは住民が定住生活を始めた証拠であり、都田川沿いで稲作が始まったことを示しています。さらに同時期の遺跡が谷上の向山でも発見されました(向山遺跡)。(参考資料(3) p.44)

銅鐸の発見

1987年、都田町前原において「浜松地域テクノポリス開発予定地内発掘調査」が実施されました。そこで埋められた状態の銅鐸が発見され、「前原銅鐸」と名付けられました。銅鐸は弥生時代後期(1800年前)のものであり、三遠式銅鐸と呼ばれるタイプです。大きさは67.3cm、幅は35.7cmと大型であり、埋納状態が確認されたのは全国で初めてとのこと。現在、浜松市博物館に常設展示されています。

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(浜松市HP>博物館情報>前原銅鐸の出土状況ページから写真を引用)

「古墳時代」

都田には発見されたものだけで100基以上の古墳があり「都田古墳支群」と呼ばれています。古墳形状は円墳が多く、前方後円墳もいくつか見つかっています。下表はやや古い資料ですが、都田川周辺で多くの古墳が見つかっていることがわかります。(現在は、表に示された数よりももっと多く見つかっています。)

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(浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「浜松市史」から引用)


都田では主に丘陵で古墳が見つかっています。主だったものとして、見徳古墳群(横尾)、郷ヶ平古墳群(中津)、恩塚山古墳群(一色)があります。保存状況が良好なものは浜松市の史跡に指定され公開されています。また現在残っておらず過去に記録のあるものとして、、向山古墳群(谷上)のほか須部地区、吉影地区などで見つかっています。

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「見徳古墳」

横尾地区では4基の古墳が発見されていますが、テクノポリスや都田総合公園の開発に伴って3基は取り壊されたものと思われます。しかし1基(3号墓)のみ保存され「見徳古墳」として一般公開されています。周囲からは須恵器や土師器などの土器が発掘されました。なお上図において横尾の4つ並んだ黒点は古墳の数を表しており、その位置は実際と異なります。

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(見徳古墳の外観)


見徳古墳の詳細な位置は次の資料に報告されています。引用したのは「静岡県埋蔵文化財調査研究書調査報告 第52回 ”椿野遺跡” 平成4年度二級河川都田川住宅宅地問連公共施設促進工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」における第2図「周辺遺跡分布図」の一部です。
 下図はテクノポリス造成前(1984年以前)の都田横尾地区および周辺における古墳が黒点で示されている地図です。「51」と記されているところが見徳古墳の位置です。現在は周囲に沢上墓苑、新木墓苑、および都田総合公園が造成され、削ったり盛られたりして現在とはかなり様子が異なりますが、この地図からはもともとの地形を見てとることができます。
 都田総合公園の調整池の南側、小高い山は谷上地区(地図 52)ですが、地図を見るとここにはさらに多数の古墳が造営されていたことがわかります。

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(静岡県埋蔵文化財調査研究書調査報告 第52回 ”椿野遺跡”の記載図を引用)



「奈良時代」

古事記などに「遠江国造」が置かれていたことが記されており、奈良時代以前から大和朝廷の支配下にあったことが伺えます。遠江には浜名(はまな)・敷智(ふち)・引佐(いなさ)・麁玉(あらたま)・長田(ながた)・磐田(いわた)・周智(すち)・佐益(さや)・城飼(きこう)・蓁原(はりはら)の十郡がありました。勤広壱漆部造(きんこういちぬりべのみやつこ)道麻呂という名の「遠江守」が置かれていました(続日本記)。当時、都と東国を結ぶ街道は浜名湖の南と北にルートがありましたが、都田は北ルートが通っていました。なお古文書に、都田そのものに関する記述はないようで詳細は不明です。

「平安時代」

「倭名抄」は、平安中期の源順(911-983)著、ここに「引佐郡には京田(美夜古太、みやこだ)、刑部(おさかべ)、謂伊(いい)、伊福、の4つの郷がある」(高山寺本)ことが記されています。京田は都田の古い表記です。

平安遷都に際し、桓武天皇がその候補地として都田を選び、「ここがみやこだ」と言われたことが京田(みやこだ)の地名の由来だと地元に伝わっていますが信憑性は定かではありません。

「御厨(みくりや)」

御厨とは伊勢神宮領の荘園。鎌倉時代には全国に数100ヵ所あったと伝えられ、遠江には「尾奈御厨」、「都田御厨」、「蒲御厨」、「刑部御厨」、「祝田御厨」、「美園御厨」などがありました。都田御厨は、遅くとも永保年間(1081)以前より成立していたことが「兵範記裏文書」に記されています。都田は平安時代以降、御厨として発展していきました。

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(浜松市立中央図書館 浜松市文化遺産デジタルアーカイブ「浜松市史」から引用)


「鎌倉時代」

1184年。源頼朝は「都田御厨」が伊勢の皇大神宮(伊勢神宮)領であることを保証したことが「吾妻鏡」に記されています。

「南北朝時代」

井伊氏、浜松荘、気賀荘、都田御厨は南朝側を味方します。特に井伊谷の井伊氏は、中心勢力として宗良親王をいただいて挙兵しました。
遠江守護、今川心省が死亡した時(1384年)、九州探題在任中の今川了俊に継ぎました。この年、幕府は了俊に対し「都田御厨」の半分を洞院大納言家雑掌に渡付するよう指示しました。このとき都田の作田は89町歩あり、上方と下方にわかれていました。上片の代官は池島氏(応島氏)、下方の代官は堀江氏。

「室町時代」

この時代、荘園体制が崩壊します。また天文年間(1532-1554)、都田御厨は井伊氏の所領となりました(蜂前神社文書)。

「戦国時代」

都田における戦国時代の実力者は菅沼忠久。井伊谷の三人衆のひとり。1569年、徳川家康は今川氏真を破って、都田は家康の所領となりました。1590年より堀尾帯刀吉晴の所領、1609年より徳川頼宣の所領となりました。参考資料 (2) P.52

「江戸時代」

江戸時代以降は浜松城下に関する記録が中心となり、都田に関する歴史的記録は少ない。南北朝時代までは御厨としてしばしば歴史書に登場しましたが、その後は地方豪族の支配下に入り、また浜松の陰に隠れ、田舎の村として平穏な時を重ねていったものと思われます。1620年より天領(江戸幕府の直轄地)となっています。

「明治、大正時代」

1875年、上都田村と下都田村が合併して都田村となりました。1889年、滝沢・鷲沢が加わり引佐郡都田村となりました。1914年、浜松軽便鉄道が開通し、都田村には「都田口駅」と「谷駅」ができました。

「昭和時代」

1941年、滝沢に石灰採石場ができました。1945年、満州からに引揚者が入植し高台地区の開拓が始まります。1955年、都田村は浜松市に編入し、浜松市都田町となりました。1987年、テクノポリス建設工事が始まりました。

miyakoda_banner.jpg 3. 都田の神社仏閣

都田は小さな町ですが多くの神社仏閣があります。それらをすべて簡単に紹介します。(この項、参考文献 (3) から引用)
神社
須倍神社 創建887年、式内社。引佐郡六座のひとつ。伊勢神宮を勧請したもの。
津島神社(川山,新木,横尾,谷上,中津,一色,吉影,中野,須部) 創建年代不明、9つの郷すべてにある。
・六社大明神(川山) 創建年代未調査
・白鬚(しらひげ)神社(新木) 創建年代未調査
・平八稲荷(新木) 創建年代未調査
・豊都(とよつ)稲荷(横尾) 創建年代未調査
・山の神(横尾) 創建年代未調査
・比地利(ひじり)神社(谷上) 創建年代未調査
・天神社(吉影) 創建年代未調査
・八幡神社(吉影) 創建年代未調査
・社宮神社(吉影) 創建年代未調査
・御岳神社(吉影) 創建年代未調査
・天白(てんぱく)神社(中野) 創建年代未調査
・八剣神社(中野) 創建年代未調査
・雷(いかづち)神社(須部) 創建年代未調査
・源宮(もとみや)神社(須部) 創建年代未調査
寺院
・龍洞院(りゅうどういん、須部) 都田山(とでんさん)。曹洞宗、創建 1588年、本尊 薬師如来
・貴見寺(きけんじ、横尾) 大日山。曹洞宗、創建 1591年、本尊 阿弥陀如来
・東川寺(とうせんじ、川山) 延命山。曹洞宗、創建 1615年、本尊 延命地蔵菩薩
・玉雲寺(ぎょくうんじ、新木) 龍播山。曹洞宗、創建 1619年、本尊 延命地蔵菩薩
・円福寺 地蔵堂(一色) 宝池山(ほうちさん)。臨済宗、創建 1583年、本尊 延命地蔵菩薩
・見龍院 観音堂(吉影) 大せん山。臨済宗、創建 1575年、本尊 延命地蔵菩薩
・長源寺 虚空蔵(谷上) 臨済宗、創建 1544年、本尊 虚空蔵菩薩。現在堂宇はなく忠魂碑があるのみ。
・安正寺 薬師堂(あんじょうじ、中津) 臨済宗、創建年代未調査、本尊 薬師如来。1979年再建
・金昌寺(中野) 太高山。臨済宗、創建 1559年、廃寺。現在「西の墓地」が残るのみ
・正仲院(しょうちゅういん、中野) 臨済宗、創建年代不明、廃寺。現在「東の墓地」と観音堂、不動堂が残る。
・本久寺(中津) 臨済宗、創建 1428年、本尊 多宝如来
その他
・六地蔵尊(谷上) 川北地区にある。6体の内、もっとも古いものは1652年、市川平左衛門が造った。お堂を1979年に建立。
「須倍神社」〜古代より都田にあった神社

「延喜式」には、平安中期において引佐郡には公式に6神社が登録(いわゆる式内社)されており、都田には「須倍神社(あるいは神明宮とも呼ばれる)」がありました。浜松市都田町字神明風呂に現存。社伝によると887年、伊勢神宮を勧請して創建。当初、内宮は山の上に、外宮は下都田中津にありましたが、902年、上下宮を統合して現在地に祀ったといいます。秋の例大祭では、9地区(川山・新木・横尾・吉影・谷上・一色・中津・中野・須部)より山車が引きまわされます。
 なお、神社名の「倍」と地名および苗字の「部」が違っていますね。これはその昔、神社の文字を自分たちの音前に使うのはもったいない、として字を変えて「須部」にしたとのことです。かつて内宮のあった場所は現在「須部」として地名となっています。

miyakoda_banner.jpg 4. 都田発祥の名字

都田に在住の方々の名前に、あまり聞き慣れない名字があります。たとえば「宮司さん」とか「須部さん」。宮司さんの全国分布を「同姓同名探しと名前ランキング」を利用して調べてみたところ、全国には165世帯、うち71世帯が静岡県に集中しています。(2番めに多い県は福岡県の16世帯) さらに県内の分布を調べると、浜松市北区(すなわち都田を含むエリア)に42世帯と圧倒的に多い。この結果を解釈すると、宮司さんは都田に発祥した名字で、その後、子孫が少しづつ浜松市北区以外、さらに他県へ移住していった結果が今回の数字、と見るべきでしょう。

須部さんについてもまったく同様の結果でした。(須部さんは、都田町の式内社「須部神明宮」に由来。)他に気になった名字として「神門さん」、「鳥居さん」、「加茂さん」、など。都田町内のお墓を見て回ると、以上の5つの名字が実に多い。

都田古史の調査を進めるにつれて、これらの名字には共通性があることに気づきました。それは「神社に関わる言葉」なのです! 奈良時代以降、都田は神明宮の直轄領地「御厨」でした。長い歴史の中で伊勢神宮に年貢を納めたり、監督者が派遣されてきたりと、なにかと国内最高峰の神社とは太いつながりを保っていました。そういったなかから神社に関わる人達の名字が生まれてきたのではないでしょうか。

miyakoda_banner.jpg 5. 考察とあとがき

都田は静岡県浜松市の北部(浜松市北区)に位置し、人口が1万人にも満たない小さな町、いや村ですが、その歴史は驚くほど長く、文化風土が1000年以上の永きに渡って守られています。今やテクノポリスの設置、新東名高速の開通によって飛躍的に発展を遂げていますが、明治時代以前は外部との交流が少なく閉ざされた村であったことがその理由でしょう。

都田は、奈良時代までは「京田」と書いて「みやこだ」でした。桓武天皇が遷都の候補地にしたという伝承が残るほど京都に似た盆地です。北、東、南の三方が丘陵地・山地にふさがれ、村の外に通じる道は西側のみ、という地形的ハンディキャップがあります。江戸時代になれば秋葉街道や奥山半僧坊詣の道も作られ、東と南の三方原台地に出る事ができるようになりましたが、それ以前は閉ざされた村でした。

また、盆地内を流れる都田川は大雨のたびに反乱を繰り返し、安定した田畑を維持できず、地方豪族にとって魅力ある領地とはなり得なかったのでしょう。そのため歴史的に見ても都田村が領地争いの戦場になったことは一度もありません。戦国時代の戦乱下で、三方原や井伊では武田、今川、徳川などによる戦場となったが都田は蚊帳の外でした。

こうしたことが、石器時代から古墳時代、奈良平安時代、室町時代、江戸時代、昭和時代まで人の出入りが少なく変化の少ない村を維持し独自の文化風土を作ってきた大きな理由でしょう。旧都田村(盆地内の都田の郷)の住民の数はおそらく奈良時代から昭和初期までほとんど一定だったのではないでしょうか。

昭和から平成に変わるころから、都田は2000年の歴史を覆す大変貌を遂げることになりました。それまで南に位置する浜松市街地区との交流もテクノロードの開通により可能となり、フルーツパークとテクノポリスの完成により今や外から都田を訪れる人は増加の一途をたどります。新東名の完成はそれに拍車をかけました。都田総合公園の駐車場を眺めると市外・県外からの訪問者が目立つようになってきています。



参考文献
(1) 「都田村郷土誌」富田準作 著 1941年
(2) 「都田風土記」わが町文化史 浜松市立都田公民館 編 1994年
(3) 「都田地区の地名の由来」郷土文化 第20集 都田郷土史研究会 編 2002年
(4) 「浜松の古墳めぐり」 浜松市生活文化部生涯学習課 編 2008年
(5) 「浜松市の石造文化財」 浜松市石造文化財調査会 編 2001年
  (以上の文献は浜松市内の図書館で閲覧することが出来る)
(6) 「三方原物語」 浜松北地域まちづくり協議会 編 2001年


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